たきわ交通局

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砧線の面影をさがして…

多摩川で採れた砂利を都心に輸送するために開業した路線が玉電。玉電といえば世田谷線、と答える方は多いのではないでしょうか?

玉電のことをわかりやすく説明すると渋谷~二子玉川園間(当時)、二子玉川園~砧本村間の砧線、三軒茶屋~下高井戸間の下高井戸線(現・世田谷線)と広範囲にわたります。

今年2017年は玉電の歴史が始まって110年、廃止から48年(人間でいえば年男・年女といったところ)にあたります。また、玉電の生まれ変わり新玉川線(現・田園都市線)の渋谷~二子玉川園間が開業して40年になります。

そこで今回は砧線の面影を紹介したいと思います。

まずは二子玉川園駅(現・二子玉川駅)
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再開発で当時の面影を探すのは全くと言っても不可能です。バスターミナルが整備され、RISE(ライズ)が開業して…。玉川線が走っていた当時は新玉川線がなく、大井町線(後に田園都市線、再び大井町線に戻る)、玉川線、砧線の3路線が集まるターミナル駅でもありました。

二子玉川園を出発した砧線はしばらくして90度左に曲がり、246号線を横切った最初の駅は
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中耕地駅です。廃止1年前の1968(昭和43)年に撮影されたものだそうです。

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歩道のイラストでも駅が描かれています。砧線は全線単線の路線で途中駅での車両の交換等はありませんでした。

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中耕地駅があった証を示すキロポスト。ここに立ち止まると電車がやってきた、というのも今は昔。

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次は吉沢の交差点付近。玉堤通りと平面交差したところに吉沢駅がありました。この付近のカーブはきついもので200形(電車とバスの博物館に保存)を試運転列車で走らせたところ、曲がり切れずそのまま引き返したというエピソードがあります。

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吉沢から野川を渡る手前のところです。
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砧線は1両の電車が走行していたのですね。江ノ電でいえば「タンコロ」といったところです。

野川を渡ると終点・砧本村まで道路の幅は狭いです。一方通行ですし、ここに玉川線が走っていたことが理解できます。
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ひたすら歩いて終点砧本村です。東急バスの折返所があります。
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かつては渋13(渋谷駅~二子玉川園駅経由~砧本村間)と黒03(目黒駅~二子玉川園経由~砧本村間)も発着していましたが、現在は玉06(二子玉川駅~砧本村)しか発着していません。現在、渋谷駅からバスで砧本村へ向かう場合は二子玉川駅まで渋12に乗り、二子玉川駅から玉06に乗り換えなければなりません。砧線は廃止まで線内の全線通し運転だったため、廃止後はバスでそのまま直通できる渋13を設定したのかもしれません。

駅舎で使っていたものはバスの待合所として再利用されました。
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木製ベンチも現役。
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砧線のエリアはここは世田谷区か、と思わせるようなのどかな光景が広がっています。世田谷区といっても広いですから、都心寄りの顔と郊外の顔、と分けることもできます。さておき、玉川線の面影は半世紀近くでほぼ失われました。たとえば、渋谷駅は路線廃止後小田急バス・東急バス・高速バス、さらには東急東横店⇔東急百貨店本店間を直通する送迎バスなどのターミナルとして活用されましたが、1994(平成6)年から始まった再開発でバスターミナルが廃止となりました(バスターミナルが廃止になったのは1994年6月30日だったかと…。そのバスターミナルから発着していた大井町駅行きや幡ヶ谷行きなどはすべて西口ターミナルに、東急百貨店送迎バスの乗り場は東横店東館向かいに移動したのは憶えています。)
そして2000(平成12)年4月7日。空が広く感じた玉川線乗り場の全体は東京急行電鉄・京王電鉄(再開発開始当時は京王帝都電鉄)、帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)の3社がデベロッパー(開発業者)となった渋谷マークシティに生まれ変わりました。大橋車庫の敷地は東急バス㈱大橋営業所に転用されたものの、2002(平成14)年9月に廃止され、現在は首都高のジャンクションに。焦らず急がず、玉電が走っていたところをまた散策したいと思います。

また、この記事の投稿日が2017年3月11日となっていますが、あの東日本大震災から6年という歳月になります。被災された方々にお見舞いを申し上げますとともに、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りします。

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